友人がオペをすることになった。
久々に会った友人が、オペをするのだという。オペの箇所は脳内血管における異常という(この理解で合ってると良いのだが)、まあとにかく難しい病気で、何でも10万人に0.3か0.4人くらいしかかからない非常に珍しい病気なのだと言う。ちょっと前から耳鳴りがするというので少し気になってはいたが、どうやら脳神経外科で診察・検査を受けた結果オペの運びとなったということらしく。本人曰く、オペと言ってもカテーテルでやるので、メスでやる外科的なものよりも体に掛かる負担はずっと低いらしい。
そうは言ってもオペだ。そしてカテーテルといっても、足の付根から細い管を挿入して脳内まで到達させて病巣を処理するという、凡人には到底想像できない世界ではある。とにかく今はそのオペが無事に終わることを願う。本人の言っていた言葉で印象的だったのが「ストレッチャーに乗せられて看護師に運ばれていく時に天井が流れていって。死とかもやっぱり意識するし。これで終わるのか、みたいな。でもこういう経験すると、人間の幅が広がる気がするんだよね」という言葉だった。
その立場にならないと絶対に理解できないことってある。病気とかはその最たる例だろう。彼の病気と比べるのもおこがましいことではあるが、個人的にはやはり耳のことが浮かぶ。耳が聞こえなくなるという経験をして初めて感じたことは多い。同時に体をいたわることの大切さも学んだ。そろそろ年齢的にも、一度は人間ドックみたいなものを受けといたほうが良いのかもとも思う。何をするにも体が資本だし、一度壊してしまった部分を元に戻すのは大変なことで時間もかかる。
カテーテルといえばうちの父親だ。父は僧帽弁狭窄症という心臓の病を患っており、カテーテルを何回もぶっ刺された経験がある。父は24年前に一回目の脳梗塞を、42歳という年齢で経験した。一般的には、そういう病気にかかるにはまだまだ若い年齢だと思う。意識が遠くなり次に気がついたときには体のあらゆる場所が自分の思うように動かない状態になった自分に気がついた時、父親は何を思ったんだろう。言葉がうまく出ず、思うように他人とコミュニケーションを取るのが難しくなり、自分の子供達とも今まで通り接することが難しくなったことに気がついた時、父親は何を思ったんだろう。まああの人のことだから、淡々と現実を受け入れる努力をしたのだろう。
前に聞いたことがある。そういう体になってしまって自殺とか考えたことないの?と。今思えばよくもそんなこと聞けたよなとも思うが、父親の答えは予想の斜め上をいっていた。
「死んだら明日のご飯が食べられないから」
この人を超えることはできないなとその時思った。
友人のオペの話を聞きながら、そんなことを思った。とにかく、彼のオペが何事もなく平穏に終わることを祈る。
Peter Gabriel – A book of love
わるい。なぜか僕の環境からこのブログにアクセスできないことが度々あって、しばらく見れてなかったんだけど、今ジャーニー聴きながらこのエントリや、ほかの読んだりして、去年送り出してもらってからもうすぐ一年なのだなとか、いろいろ思って目から鼻水がたれそうな気分。
お、どうも。今はアクセスできるのかな?
Faithfullyやりたいですね。あれは本当にいい曲。
みれるみれる!