と歌っていた俳優がいた、昔。ピンときた人は同世代。
件の歌は確か、破天荒な教師がとある学園の荒れたクラスを担任することになって…という学園モノで、当時相当流行った。確か九十年代後半くらいだったと思うけど、まあ懐かしい。
とかく日本人は言われることが多いかもしれない、「言いたいことも言えない」という概念。少し前に友人たちにそれを言ったら「お前はかなり言いたいことを言っている」という指摘を食らったが、まあ個人的には、そう簡単に言いたいことなんて言えないよな、と思う。これでもいろいろ考えてんだぜと言いながらその時は笑ってしまったわけだけど、今の時代、「言いたいことも言えない」というのは、本格的にそういう風潮になっている気はする。でも同時に、「言わなくてもいいことまで言う」ような人たちもいるということも言えてるけど。政治的な話とか最近流行りのポリコレどうこうなんかとかとあわせると、言いたいことも言えなくなったと感じている人はそれはそれはたくさんいるのだろうと。言いたいことをバンバン言う大統領がいる一方で、これを言ったら…とか考えちゃって片隅で縮こまっちゃう、みたいな人もいるだろうなと。こういうことをいろいろと論じられるほど自分に教養があるわけじゃないし、普段から考察に考察を重ねているわけでもないのでまあ結局の所自分としてはなんとも言えないけど。
自分的には、最近流行りのAIと翻訳に関連したエリアで、この「言いたいことも言えない」っていう概念をちょっと感じている部分がある。なんというか、要は、AIとか人工知能、ニューラル翻訳っていうものを考えたとき、翻訳業界は大きく二分されてると思う(自分の狭い観測範囲では、ですが)。「仕事なくなるよ君らどうすんの!?」という派と「機械翻訳、おそるるに足らず!それよりもクライアントの意識改革をせよ!!」という保守派と。個人的にはAI(翻訳)を使ってもっと楽に仕事ができればいいんじゃね?あんまり仕事がなくなるとかそういう風に考えなくてもよくね?それから翻訳という仕事自体はあまりなくならない気もするけどな…という派でしょうか。この辺はまだ考えとかまとまってないので大きくそう感じている、というだけですが。
でも実際問題、じゃあぐぐる翻訳大先生を仕事にそのまま使えるかというと、辞書代わりに各訳語のチェック程度にしか使わないのが現状で(原文をそのまま入力するっていうのはコンプライアンス的に厳しいのでそのあたりは一応一手間入れてますが)、一見「いいかも」っていう訳文が出ても、結局は原文に戻って最初から読み直さないといけない。そしてそこに含まれているエラー(微妙なものから明らかなものまで)を潰していって、原文の意味をきちんと含んだ訳文にしてやる作業が、結局は不可欠って感じ。このプロセス考えると、AIや機械、ニューラル翻訳がどんどん出回ってそれなりの制度になったとしても、翻訳にまつわる仕事はなくなることはないんじゃないだろうか、と思う。まあでも、仕事としてなくなるかなくらないかを論じるのは無意味だとも個人的には思っているけどね。それから、自然すぎる訳文が逆に不自然なんだよね、現状のぐぐる翻訳系機械翻訳って。だからそのへんも考えてもっと頭良くなってねーとも思っている。
おっとそれこそがポストエディットってやつで、君ら翻訳者の成れの果てなんだよとよく言われるんですよ、たしかに。でもその論法で行くと、それじゃ君らクライアント側も、機械翻訳が訳しやすいような意味の通りやすい原文、「機械翻訳を忖度した」原文を書くプリエディットってやつに支配されて、言いたいことも言えない世の中でお暮らしください…みたいな水掛け論になるので、まあそれはそれで。
“Wide Open” by The Chemical Brothers
クライアントどころかエージェントが「ぐぐる先生そんなこと言ってないですよー」とかフィードバックしてきて脱力したことを思い出しました。どの立ち位置にある当事者にせよ、問題が外にあると認識している限り、何も改善は期待すべきではないかと。自分が対応できる課題に細分化なり転換なりしてこなしていくか、期待値を下げていくか。
エージェントが言うとは…すげーキツイっすね、それ。
結局は自分がどう立ち回っていくかですね。