頭が良いって何なんだろうということをよく考える。
「あの人、頭良いよね」って言う言葉、どういうときに出ます?または、どういうトピックの時に耳にしたことあります?
っていうようなことが定期的に頭の中を巡る。勉強ができる人は頭が良いのか?特定の分野で物事をよく知っている人は頭が良いのか?あまり衝突せずに人とうまくやっていける人は頭が良いのか?母国語以外に何カ国語か話せる人は頭が良いのか?翻訳がうまい人は頭が良いのか?
まあいろいろと疑問は尽きない。が、要は、「頭が良い」の定義が自分の中であまり固まらないままずっと来てしまっただけなのだろうと思っている。
で、である。3歳でも85歳でもクリックなりタップすれば均等に情報を入手できる今の世の中、何かを知っているということは何のプラスにもならない。調べればわかる、から。というか、Google大先生に聞きさえすれば大抵のことは教えてくれる。が、ヒントになるようなことをついこないだ体験した。
知人の子供(高校生)から「a と the の違いって?」と聞かれたので、「うーん、でかいな、質問が。強いて言うとするならば、相手とコミュニケーションする上で必要な矢印とかポインタとかかな。“わたしは知っているけどあなたは知らないとあるモノ”だったら、a という矢印を使う、“あなたもわたしも知っているアレ”、であれば、the という矢印を使う、みたいな」という、まったくもってダメな回答をした。するとその子は、「ふーん、よくわかんないけどネットで確かめてみる」と答えた。「確かめてみる」というところで、「それって合ってるの?」と聞かれているという雰囲気ではあったが、まあ別に気にしないで「そうしてみて」と言っといた。しばらくしてこっちの会話に割り込んできた彼女が、「ネットには、a は何か一つのもの、the は特定のものって書いてあるよ。矢印がどうとか別にコミュニケーションがどうのこうのってのは書いてない。学校でもそう習った」と。なるほどそうでしょう、a は不定冠詞、そして the は定冠詞と呼ばれるゆえんである。不特定の何か、そして特定の何か。だけどさ、自分だけの視点で考えるより、他者とのコミュニケーションという軸で考えたほうがもっとわかりやすいんだけどな(例えば自分と相手、書き手と読み手、など)と思ったのもつかの間、父親が口を挟んだ。
「ネットに書いてある情報はいつでも正しいのかなあ」
「え、だってちゃんとした英語のことを説明しているサイトだもん」と娘。「それはわかるけどさあ、結局そこに書いてあることって、誰だって手に入れられる情報な訳で、それが正しいのかそうでないのかとか、そこで得た情報による自分なりの適用というか、分析の部分をすっ飛ばして結論づけるってのはどうかと思うなあ」と父親。まあ父親だけあって、ずかずかティーンの心に踏み込んでいく。「いっつも言われるけどいまいちピンとこない」と娘もそこでぶすくれる。いつも言われてんだ(笑)と思ったが顔には出さない。父親はかまわず続ける。「考えないと。知ってるだけはほぼ知らないと同じ。知ったことをベースにして考えないとね、人は考える葦だからなあ」と。
考える。
思えばSNS全盛の今日この頃。チャットやツイートなどの短文でのやり取りがメインのコミュニケーションとなっている今日この頃。情報を得るために検索ワードを適当に打ち込み、ちゃっちゃちゃっちゃとサイトを渡り歩いていく。ツイートをスキャンしていく。ポストをスクロールしていく。そして好みの情報にありつけると、それを読んで満足してしまう。自分もいつしかそういう行動がメインになっているかもしれない、と、この父娘の会話を聞いて、どこかで「高校生だからなーまだまだわかってないなーフフン」なんて思った自分を恥じた。
「考えることのできる人間になれ、とよく言われる」とその子は言っていた。だが「考える」と一口に言っても、とてもとても奥深い。そしてただ単に考えられれば頭が良い、と言うことはできない。少々強引に「頭の良さ」を「考えられるということ」に結びつけてしまったが、そのときそう感じたのである。
またあるとき、別の友人の子供(中学生)が言った一言が頭に残った。
「勉強ができる人は、社会ができない」
最初、社会科という科目のことを言っているのかと思ったが、そうではなかった。その子が言いたかったのは「学校とかで勉強ができる人が、必ずしも社会でうまくやっていったり生きていくことができるわけではない」ということだった。「テストができて頭良いって言われる人ほど、他の人と問題起こしたりする」ということに最近気がついたそうで。どういう人生のイベントがあったのかは知らないが、一つの考え方としてよく言われていることではある。まあこれだって結局個人で違うし、そういう人もいる程度に捉えておかないとダメでしょうね。
結局頭が良いって何なのだ? 要領が良い? 記憶力が良い? 要約力が高い? たとえを使うのがうまい? ものの見方が多角的? 俯瞰の視点を持っていること? 東大に入れる? でもこれらって、結局訓練次第で身につけることのできる可能性のある後天的な部分よね?
とここまで考えて、唐突に自分なりの結論に至った。
頭が良い悪いという考え方自体をやめた方が良いのでは、ということである。この何とも「便利な言い回し」をやめるのだ。こんな十把一絡げ的な表現に収めようとするからおかしくなるのではないか。頭が良い悪いはどうでも良い。何かの結論を出したとして、そこに至るまでにどんな思考を経てきたのか、深い思考なのか、それとも浅くちゃちゃっと表面だけなぞってきたのか。すべては結果に表れるし、人は誰しもその結果を刈り取る。頭の良し悪しが何なのか考え続けたり、頭が良くなりたいと悩んだりするより、自分の知らないことを知っていき、世界が広がることを実感して楽しんだ方が数倍面白い。楽しもう。